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ラーメンのルーツは横浜の「南京そば」南京町の麺が、日本のラーメンになるまで

いまや日本の国民食になったラーメン。そのルーツをたどると、明治の横浜・南京町にたどり着きます。

中国の麺は、昔から食べられていた

中国から伝わった麺の記録は、意外と古くからあります。室町時代の1488年には、かんすいを使ったとみられる麺を客にふるまった記録が残っています。

ただし、中華麺とスープが一体になった、いまのラーメンにつながる料理が登場するのは、明治になってからのことです。

南京町の麺「南京そば」

開港後、日本人は中国人が住む街を「南京町」と呼びました。そこで食べられていた中国の汁そばは、まとめて「南京そば」と呼ばれるようになります。

1884年(明治17年)には、函館の新聞に載った店「養和軒」の広告に「南京そば15銭」と書かれた記録があります。

1899年に居留地が廃止されると、南京町の中国人料理人が本格的に店を開くようになり、中国料理が日本人の間にも広がっていきました。

ここがポイント 日本のラーメンの出発点は、開港後に中国人の街で食べられていた汁そばです。横浜の南京町は、その代表的な場所でした。

すぐには広まらなかった理由

ところが、南京そばはそのままの形では日本人の間に広まりませんでした。

新横浜ラーメン博物館の館長は、肉食が解禁されてまだ間もない時代で、豚の風味が日本人になじまなかったのではないか、と推測しています。

浅草の「来々軒」で、日本のラーメンになる

転機は1910年。東京・浅草に「来々軒」という店が開きました。創業者の尾崎貫一は、横浜の南京町から中国人の料理人12人を連れてきて店を開きました。

スープは豚骨と鶏ガラ、タレは醤油。具は焼き豚、メンマ、刻んだネギ。日本人の口に合うよう、あっさりと仕上げたこの一杯が、いまのラーメンの原形になったといわれます。正月などの忙しい時期には、1日2500〜3000人の客が来たと伝えられています。

「南京そば」から「ラーメン」へ

呼び名も時代とともに変わりました。明治の終わりから大正にかけては「支那そば」と呼ばれ、来々軒の看板にもこの名前が書かれていました。その後、「支那そば」は「中華そば」という呼び名に置き換わっていきます。

「ラーメン」という名前の由来には、はっきりした答えがありません。1922年(大正11年)に札幌の「竹家食堂」で名づけられたという説がよく知られていますが、ほかにもいくつもの説があります。

震災をきっかけに全国へ

1923年の関東大震災のあと、東京で職を失った料理人たちが各地へ散り、ラーメンが地方にも伝わったとされます。これが、いまのご当地ラーメンの源流になったといわれています。

次に食べるときは 焼き豚、メンマ、ネギ。いまでもおなじみのこの組み合わせは、来々軒のころから続いています。