中華街でピアノが作られていた。「周ピアノ」の物語山下町123番地の小さな店から、全国に10台あまりが残るまで
明治の終わりから昭和の戦争まで、横浜中華街にはピアノを作る店がありました。店主の名をとって「周ピアノ」と呼ばれます。震災と空襲を越えて残った数台が、いまも中華街で見られます。
山下町123番地のピアノ店
1912年(明治45年)、山下町123番地に「周興華洋琴専製所」という店が開きました。場所はいまの南門シルクロード沿い、元町寄りです。3本の音叉をあしらった木彫りの看板が目印で、のちに「周ピアノ」と呼ばれるようになります。
当時のピアノは、家が一軒建つほど高価なものでした。それでも周ピアノは、音の良さと装飾の美しさで評判をとり、よく売れました。開店から5年後には、堀ノ内(いまの横浜市南区)に新しい工場を建てています。
上海で腕を磨いた創業者
店主の周筱生(しゅう しょうせい)は、中国浙江省の出身です。兄とともに上海へ出て、イギリス系の楽器商でピアノの製造と販売に10年以上たずさわりました。
1905年(明治38年)に横浜へ来て、外国商館のピアノ工場で主任として働きながら、中華街の一角で独自のピアノづくりを研究しました。その7年後に構えたのが、山下町123番地の店です。
震災と戦争
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で、店は崩れ、店主と次男が亡くなりました。残された妻が中心になり、40人ほどの職人とともに堀ノ内の工場を立て直します。7年後には長男の周譲傑(しゅう そんじぇ)が工場長になり、二代目の時代に入りました。
しかし1945年(昭和20年)の空襲で工場は焼けます。部品の仕入れで上海と行き来していた譲傑はスパイの疑いをかけられて連行され、終戦の翌年に亡くなりました。ここで周ピアノの歴史は終わります。
いま見られる周ピアノ
震災と空襲を受けた横浜では残っていないと考えられていましたが、その後、初代と二代目の作を合わせて全国で10台あまりが見つかっています。2004年には群馬県桐生市で初代のピアノが見つかり、1922年に購入した記録も残っていました。
このうち2台が、中華街大通りの「萬珍樓本店」に2007年から展示されています。初代の作には「S.CHEW PIANO」、二代目の作には「S.CHEW&SON」の銘が入っています。