ホーム › 歴史と街 › 中華街の地下では、明治の下水道がいまも働いている
歴史と街

中華街の地下では、明治の下水道がいまも働いている日本の近代下水道は、横浜の居留地から始まった

南門シルクロードの地下には、明治時代につくられたレンガの下水管が、いまも一部で使われていると言われます。日本で最初の近代下水道が整えられたのが、中華街を含む横浜の外国人居留地でした。

いまも残る明治の下水管

関帝廟通りの西の端にある地久門から長安道を南へ進むと、中土木事務所の入口の横に、レンガでできた大きな下水管が置かれています。1981年に山下町で掘り出された、明治時代の下水管です。

この時代につくられた下水管の一部は、南門シルクロードのあたりで、いまも使われていると言われています。

明治2年、陶管の下水道

開港から数年で、中華街を含む外国人居留地の人口は急に増えました。そこで1869年(明治2年)、明治政府が雇ったイギリス人技師ブラントンが、焼き物の管(陶管)を地中に埋める下水道を計画します。

道路の中央の地下に、ゆるい傾きをつけて陶管を通し、7か所から海へ流す仕組みです。道の両側には側溝を設け、約60mごとの雨水ますから地下の管へつなぎました。全長は約6.5kmで、2年がかりで完成しました。

ここがポイント それまでの日本の下水は、ふたのない溝や汲み取りが中心でした。管を地中に埋めたこの下水道が「近代下水道の始まり」とされ、最初に整えられたのは横浜と神戸の外国人居留地でした。

卵形のレンガ管へ

完成から10年たたずに、陶管の下水道は足りなくなります。1000人あまりだった居留地の人口は、1880年には約4倍の3937人になっていました。全国でコレラが広がったこともあり、1881年から6年をかけて大改修が行われます。

このとき活躍したのが、日本人技師の三田善太郎です。断面が卵を逆さにした形のレンガ管を使い、少ない水でも流れが速く、汚れが底にたまりにくいようにしました。中華街では、南門シルクロードと市場通りの地下に、縦約76cm・横約42cmの管が埋められ、いまも使われているのはこの管だと言われています。

臭いを止めるマンホール

2001年に見つかったマンホールの跡から、細かな工夫もわかりました。中には木炭を詰めた箱があり、下水の臭いを炭で浄化してから外へ逃がしていました。家の排水とつなぐ管には、水がたまるS字の曲がりがあり、臭いが上がってくるのを止めていました。いまの家庭の排水管にも使われている仕組みです。

公衆トイレの始まり

横浜は、公衆トイレの始まりの地とも言われます。開港後、日本人の立ち小便に外国人が強く不満を持ち、1871年(明治4年)、町の辻83か所に板で囲った「辻便所」が置かれました。

中華街の加賀町警察署の裏手には、蘇州の民家をもとにデザインした公衆トイレ「洗手亭」があり、1998年に横浜市のデザイン賞を受けています。

次に行ったら 地久門から長安道を南へ歩き、中土木事務所の入口横の、明治のレンガ下水管を見てみてください。