洋裁・理髪・料理。横浜華僑の「三把刀」刃物を使う3つの仕事が、華僑の代表的な職業になった理由
横浜中華街といえば料理の街。けれど明治から大正にかけて、華僑の仕事として料理と並んでいたのが、洋服の仕立てと理髪でした。
はじめから「商人」だった横浜の華僑
世界の多くのチャイナタウンでは、最初に移り住んだ中国人の多くが、農業や鉱山などで働く労働者でした。横浜は違います。開港のころに来た中国人は、ほとんどがはじめから商人や職人でした。
欧米の商社で取引の仲立ちをする買弁(ばいべん)をはじめ、貿易商、大工、れんが職人、印刷の技術者、料理人、西洋家具の職人など、さまざまな仕事についていました(横浜中華街 誕生秘話)。
刃物を使う3つの仕事
時代が進むと、横浜の華僑の仕事は、洋服の仕立て(洋裁)、理髪、料理の3つに集まっていきます。はさみ、かみそり、包丁と、どれも刃物を商売道具にすることから、この3つの仕事は「三把刀(さんばとう)」と呼ばれました。
3つに絞られていった理由
いちばん大きなきっかけは、1899年(明治32年)の居留地の廃止です。開港から40年がたち、日本人も西洋の技術を身につけていました。居留地の境目がなくなると、日本の商人や職人が進出する一方で、居留地の外で働く中国人には、つける仕事に制限がかけられました。もともと華僑の腕が高く評価されていた三把刀は、認められた職業として残り、華僑の代表的な仕事になったのです。
1923年(大正12年)の関東大震災も大きな転機でした。5721人いた横浜の華僑は、震災のあと434人にまで減りました。生き残った人の多くも神戸や上海、香港に移り、多くの商人や職人が横浜を離れました。
中国人の洋服店第1号
開港まもない1860年、オランダ人が日本で最初の洋服店を開きます。その4年後、居留地の147番地に、香港出身の譚有発(たんゆうはつ)が英国式の仕立て屋「Cock Eye(コック・アイ)」を開きました。中国名は均昌洋服店。中国人による洋服店の第1号です。
洋服は、はじめは軍服や役人の制服として大量に求められ、その後、女性の洋装も広まっていきます。1918年(大正7年)には、中国人の洋服店が本村通り沿いを中心に40店近くにまで増えました。同じ年、54年続いたCock Eyeは店を閉じています。
理髪店と辮髪
理髪店の記録は、1870年ごろ、居留地の49番地と136番地にあった「Ah Loon」までさかのぼります。136番地は、いまの横濱媽祖廟がある場所です(マンションの予定地に建った、海の女神の廟)。
ところが、理髪店はなかなか増えませんでした。当時の中国人の髪型は、頭を剃って後ろ髪を編む辮髪(べんぱつ)です。お客さんのほとんどは中国人でしたが、裕福な家は剃髪のできる使用人をかかえていたため、店の需要は大きくなかったのです。理髪店が増えたのは、清が倒れ、多くの人が辮髪をやめた1911年ごろからでした。
理髪の仕事には、江蘇省の揚州の出身者が多かったといわれます。揚州は昔から刃物づくりが盛んな土地でした。